明治維新後、貧しさに苦しんでいた日本の農村や漁村。男達は仕事を求めて海外へ出稼ぎに出て行った。
1874年(明治七年)19歳の口之津町大泊出身、網元の息子だった永野萬蔵は英国船アーガス号にボイラーマンとして乗り込み、船上で英語を覚え、1877年(明治十年)カナダ、バンクーバー南を流れるフレーザー河畔で船を抜け出して上陸。ニューウエストミンスターという小さな集落に単身で生活していた。
その後、シアトルで煙草屋、洋食店食堂を成功させて、一度日本に帰国し横浜で西洋料理店を開くが一年で見切りを付け、バンクーバーで日本式の投網により、川をさかのぼるサケを一網打尽にし塩鮭製造で財をなした。「塩ザケ王」「カナダ大尽(大金持ちの意)」と呼ばれ、バンクーバーの対岸にあるビクトリア島で日本美術雑貨店・食料品店・旅館を経営。日本人会を組織しその会長に就任。カナダの産業発展、鉄道建設などに協力した。
今も1898年に萬蔵が建てたレンガ造りの三階建のナガノ・ビルが残っている。
その頃本格的な日本からカナダへの移民が始まり、BC州で製材業、漁業、商業、農業などに従事した。
1900年初頭にはバンクーバーのパウエルストリートに日本労働者のための、下宿、食堂、理髪店が出来たことから日本人街が形成されてきた。
過酷な労働で、賃金は白人の7割から3割という賃金であっても日本で働くより稼ぐことができるとあって日本人移民が急増する。

万蔵は日本人が不当に扱われないよう権利の擁護にも力を入れていたが。その努力の甲斐無く日本人排他運動は拍車をかけ、バンクーバー暴動が起きた。

1922年(大正十一年)肺結核を患い、火災で財産を失った万蔵は次第に望郷の念にかられて妻・多興子と口之津へ帰郷の途に着いた。当時の長崎医科大学病院で治療を行ったが、1924年(大正十三年)5月21日故郷口之津で死去した。(享年70歳)。玉峯寺の墓には戒名「千岳院萬山領実相居士」と刻んである。
1977年に日系移民百年祭にカナダ政府が永野萬蔵をカナダ移民第一号と認め、ブリティッシュ・コロンビア州の山、標高一、九五五㍍=六、四〇〇フィートの山を「マウント・マンゾウ・ナガノ」と命名した。
同1977年 永野万蔵渡加百年を機に「日系移民百年祭」開催。毎年開催の日本人祭「パウエル祭」開始。
日本人の名前がついた海外の山はグリーンランドに「ウエムラ岩峰」(植村直巳さん)、南極に「ナガタ山」(永田武、南極観測隊長)があるくらいだろう。
長崎県川棚町出身(神戸市在住)拓殖大山岳部OBの藤原謙二氏(当時60才)が1997年8月24日、七年間思い焦がれていた「マウント・マンゾウ・ナガノ」に登頂成功した。
2023年4月17日 「フィギュアスケート・世界国別対抗戦」に参加したキーガン・メッシングは、高祖父にあたる萬蔵の墓がある玉峰寺でお墓参りをした。
参考資料/バンクーバー新報、横浜開港資料館・館報「開港のひろば」、バンクーバー朝日軍、口之津歴史民俗資料館