
ノラという名の雄猫がいた。名前の通り飼い猫ではなく野良であった。野良猫のくせに命名されているのは愛称ではなく悪名である。
猫サイドでは業績をあげて面目躍如とした奴であり、人間側にとっては行跡の悪い困った猫ということになる。ノラもそういう悪名高い猫であった。すでに姿を見せなくなって一年余りになる。
あれは一昨年の秋も終わりに近い夜のことである。「ふるさと通信」の編集長と私の家で一杯やった。
そろそろ帰るというので送って出ようとしたとき、戸を開けた編集長が「またノラが来とる!」と声を上げた。みると、丸まるとした一匹の茶トラが玄関先に坐っていて、「ニャーン」と鳴いた。
ふつう猫は警戒心が強く人が近づくとスーと逃げていくのであるが、ノラはそうではなかった。編集長と私に一瞥をくれただけで、その態度は自信にみちあふれていてとても猫とは思えない風格である。
それでも私が「チッ、チッ」と舌を鳴らして近づくと、のっそり立ち上がってアクビをし、さも面倒くさそうにその場を交わそうとした。
「やさしか声でノラて呼んでみんね」編集長が声をひそめて教えてくれた。
私は人間にもかけたことのないやさしさをこめた猫なで声で「ノラ」と呼んでみた。するとどうだろう。耳をピンと立て、鋭い目つきではあるが顎をコンクリート床につけるようにゆっくり近づいてきたのだ。そして差し出している。私の手の甲に頭をこすりつけ親愛のそぶりをするのである。
「こん猫にはこまっとるとばね・・・・」編集長は溜息まじりにつぶやいた。その瞬間、ノラの耳がピクと動いた。編集長の言葉がわかっているはずはないと思うがノラは私の手から離れて、ふりかえることもなくゆっくり闇の中に姿を消した。
ノラとの初対面の夜である。 (勤)
ノラという名の猫(2)
木の葉が小刻みにふるえながら、ちぎれるようにして空に舞い上がり散っていく。私は食堂の椅子に腰をおろし、風の吹き抜ける庭を眺めていた。そのとき、ふと猫の鳴き声を聞いた、と思った。それも家のなかのようである。まさか、と訝りながらも私は立ち上がり玄関を覗いてみた。
戸が十センチほどあいている。みると一匹の猫が、いま、框に足をかけようとしていた。
猫が私に気づき視線があった。その目が鋭く光った。両耳がピンと立って緊張が体中に走っている。ノラである。
いつもなら腕を振り上げ、声を荒げて追い出しにかかるのだが、待てヨ、と思った。昨日編集長に紹介してもらい、そのうえ接待のマナーまで教わったのである。ためしに「ノラ」と声をかけてみた。がノラは微動だにせず警戒の目は鋭い。
そうだ!やさしい声だった。私は腰をおろしながら、もう一度「ノラ」と呼んだ。すると上がり框の足をゆっくりおろした。目から鋭さが消え、短く「ミヤー」と鳴いた。近づいても逃げようとせず頭に手をやり撫でてやると、目を細めて私の手にスキンシップをはじめた。
その時、私のなかに一つの危惧がうまれた。玄関の戸をあけて侵入してくる猫である。親しくなりすぎて居着かれるようなことになっては・・・・・・。
私はノラに一言釘を刺しておこうと思った。私の思いが通じるとは思えないが、初対面の夜、編集長の困惑の声に素早い反応を見せ、面目なさそうに闇に姿を消したではないか。私は頭を撫でてやりながら
「ノラな・・・・」と語りかけた。
風の唸りがひときわ強くなっていた。
つづく
ノラという名の猫(3)
私がノラに語ったことを要約すると「お前を決して飼い猫にはしない。と言って目の敵にもしない。それはお前が猫族の中で特に秀れているようなので興味があるからだ。野良猫と人間のつきあいということだ」ということになるだろう。
私は台所に行くと味噌汁の残りを飯にぶっかけ、お近付きのしるしにしようと、それを持って外に出た。
ノラはニャーンといやに声をひっぱりながら後に続いた。カップ焼きそばの器に入れた猫まんまを玄関脇の柱の傍におくと、ノラはゆっくり鼻を近づけたのち、おもむろに首を捻って私を見上げた。その目が迷惑そうな感じに見えた。
私は唸った。そうか・・・そうだったのか・・・・・・私は胸のうちでつぶやきながら家の中へ引き込んだ。
野良猫と飼猫の大きな違いの一つに環境がある。野良猫の場合は常に何かの危険にさらされているということだ。
それは人間であったり、犬であったり、同じ仲間の猫であることもある。とくに餌にありついているときには危険度が増すに違いない。
餌で釣るような悪知恵は人間より他にないが、釣られる側は魚に限らないのである。
ノラもこれまでに餌を与えられて生命の危機に瀕したことが一度ならずあったはずである。周辺に気を使うことなしに食べたいという思いが猫にもあるのではないか。
時間をおいて外に出てみた。すでにノラの姿はなかった。
柱の陰の発砲スチロール製の器を覗くと、どうしたというのだろう。まったく口をつけた形跡がないのである。器のなかの汁はなくなり、真っ白だった米飯が変色してふやけている。そしてその飯の上に、ひなびた白菜の切れっぱしが一枚わびしくのっかている。
「猫の沽券というやつか」私はまた独りごちていた。
つづく (勤)
ノラという名の猫(4)
ノラのやってくる時間が一定してきた。午後五時から六時のあいだである。その時間我家では夕食の卓についている。
玄関の戸のあく音は聞いたことはない。例の挨拶とも餌の催促ともつかない鳴き声に女房か私が「ノラだ」と声を上げるのである。
ノラはゆっくり廊下に姿をあらわすと腰をおろし、私たちの食事風景を窺っている。飯を食っているところを凝視されるのは、たとえ相手が猫であっても具合の悪いものである。いたたまれなくなって私は自分の食べている物か、鍋の中の残り物を古い灰皿に盛って玄関の外へノラを誘うのである。
その日も私はノラがたべはじめるのを見届けるとすぐ食卓へ戻った。「声をかけて入ってくるところは、ノラ偉いね」と女房がいった。私は胸の内で〝フン〟とせせら笑った。
当初、ノラはひんぱんに出没していて、私たちの目を盗んでは台所兼食堂を荒らした。女房は本気で腹を立て、防護策に鉤を二組も買ってきて戸に取り付けたのである。さすがのノラもこれには太刀打ち出来ず、この時刻にくるようになったに違いない。
玄関でノラが鳴いた。出てみると、閉めたはずの戸があいてノラが入ってきている。そして私を見上げしきりに鳴くのである。
いつもと様子が違うので私は外を覗いた。
三匹の猫がウロついている。〝ノラの奴餌を横取りされたナ〟という思いが頭を掠めたが、私は〝待てヨ〟と思った。三匹の猫はノラより若いには若い、しかしそれは少年から青年になりたての若さのようなもので、とてもノラのたべ物を横取りできるほどのたくましさもなければ知恵もそなわっているはずがない。
〝一体、ノラは何を要求しているのか〟と考えていると、いつのまにか私の前にまわったノラが短く一声鳴いたのである。
つづく (勤)
ノラという名の猫(五)
ノラに触発されたかのように三匹の若猫も一斉に鳴き声を上げはじめた。
その声は妙に粘っこく耳につき私は苛立ちをおぼえた。
“これまでにこんなことは一度もなかったのに、一体どうしたというんだ”
私はなかば途方にくれ、これ以上つきあっている暇はない、と家のなかへ戻りかけて、あることを思い出したのである。
それはノラとのつきあいがはじまってまもない頃のことである。
ある日、例によって玄関にノラの声が聞こえた。いつもはそれから私たちの前にやってくるのにさして時間はかからない。ところがその日はなかなか姿を見せなかった。
私は不審に思い廊下へ出て驚いた。
ノラが先頭になり四匹の猫が後に続いてるではないか。私は咄嗟に大声を出して猫たちを追っ払った。
そのときである。ノラが奇妙な声で鳴いたのである。その声は悲しげであり、私に対する抗議のようにも聞こえた。
私は今日のノラの思いが漠然と理解できたような気がして、台所へ戻りボール一杯の猫飯をつくり外へ出た。
三匹がまた甲高く鳴いた。ボールを置くと一匹が近づき、魚の頭を引っぱり出したかと思うと素早くくわえてその場を離れた。他の二匹もそれに習って次々と餌物をくわえては所を移してたべはじめた。
ノラはしばらくその様子を眺めていたが、やおら腰を上げ、ゆっくりした歩調で表通りへ歩いていった。
私が見たノラの最後の姿である。
思えばノラは人間界にとっては手に負えない悪猫であったが、猫世界では歴史に名をのこす傑物でなかったのかと思う。
人間の世界には人の弱味につけ込んで勢力拡大を計るボスは増え続けているが、ノラは猫族たちのすばらしきリーダーだったように思う。
終わり(勤)

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